引っ越しのときに処分しきれていなかった不要品を、「あげます」のコミュニティで募集して引き取ってもらったり、友人にあげたりしてずいぶんと部屋がすっきりした。6月に越したというのに、やっと、である。
東京に来て3軒目の今の住まいは1Kで、今まで住んでいた中で一番狭い。
最初の家は2K、その後は妹と同居していて3LDKだったため、「一人暮らしっぽい」家に住んでみたいという希望で選んだのだが、ここにきて思いもよらなかった自分の心、価値観の変化を感じることができ、この家に越して正解だったと思っている。
以前の家は収納が大量にあったため、なんでも置いておくことが出来た。だが今の家には収まらない。モノが多い=部屋が狭くなる、収納に詰め込み過ぎとり出しにくい、ということが大きなストレスになっていた。引っ越しのときに随分処分していたつもりだったのだが、今の処分基準から比べれば随分甘かったと思う。
生きものは、糧や安全など、何かを獲得していかなければ生きていけない。当然人間もそれが刷り込まれており、あれが欲しいこれが欲しいという欲求、手に入れたもので自分を囲むことに充足感を感じるのも当たり前であろう。
いま、ストレスになってしまっている「お荷物」だって、手に入れたときのそれらは私を幸せにしてくれた。むしろ、それを手に入れるために努力もしていたというのに。
これはなんという本末転倒さだろう。
先日読んだ日経オンラインの記事で
「人間は、進化の過程で過剰さに触れたことはほとんどないため、飢餓には敏感でも満腹には鈍感です。過剰に対するリミッターが効きにくい。必要以上にものを持とうとしたり、稼ごうとしたりしてしまう。」
花粉症も地球温暖化も「ムダな抵抗はしない」が正しい
動的平衡で考える生物学〜福岡伸一・青山学院大学教授(後編)
という一文があってはっとしたが、現代人は精神的に肥満化してるのだ。そして「得すぎた」ことで大袈裟に言えば命を脅かされている訳だ。
なのに、欲しがることをやめない。物質に対してのみならず対人についても。いつまで経っても満たされることなく、渇望し続け、苦しみ続けている。
なんだか滑稽だ。そう思うと、自分が執着しているものへの気持ちが薄れた気がした。お買物も大好きな私だが、これからはきっと買い物の仕方も変わる。クローゼットに入らないという実際問題も伴っているが…
子供の頃、普段はほったらかしにしているおもちゃやぬいぐるみを、いざ母親が捨てようとするとわんわん泣き叫んで反対していたこと、父親の私物が小さなカラーボックス2段分しかないことを不思議に思っていたこともふと思い出したり。
執着を捨てるということはオトナになることなのか、それとも捨てた分だけまた何か得るものがあるのだろうか、はたまたこれ以上「欲しない」という気持ちになれるのだろうか…